◆ セミナーで何が得られるのか? ◆



5次元の[知覚・認識の方法・考える方法・体の意識のレベルのコントロール等]を体験的に学ぶことができます。




ある偉大な師マスターが

「ブッダ(仏)とは

 どのようなものですか?」

と尋ねられた。


「心が仏だ」

と師は答えた。


何年かが過ぎて、

再び同じ弟子が同じ質問をした。

師は

「仏もなく、心もない」

と答えた。


「ではなぜ前には

 『心が仏だ』と

 おっしゃったのですか?」


「赤ん坊を泣き止ませるためだ!

 赤ん坊が泣き止んでしまえば、

 『心もなく、仏もない』と言う」


哲学は玩具、

赤ん坊を泣き止ませるための玩具だ。

神学もまたそうだ。

宗教というのは、

本当は体験、

実地の体験から成り立っている。

それは憶測とはいっさい関係がない。

宗教は本質的に内界の科学であり、

他のすべての科学と

同じくらい科学的だ。

宗教と科学の違いは

方法の違いではなく、

たんなる

対象の違いにすぎない。


科学は、

私たちのエネルギーが流れ、

私たちの光が流れている

客観的な世界を見つめる。

宗教は、

光を流すことができるが、

今はまだ流れていない

私たちの

主観的な世界を探求する。


科学のほうが

宗教よりやさしいのは

そのためだ。

宗教のほうが

科学よりも単純であると

けっして考えてはならない。

それはより高度な科学だ。

どうして科学よりも

単純でありえよう。

それはより優れた科学だ。


まず光が内側に向かって

流れなければならない。

そうすれば

光があなたの実存を照らし、

あなたの実存が開示されて、

あなたはみずからの

実存のなかへ入ってゆける。

そしてみずからの

実存に入ってゆくことは、

神の王国に入ってゆくことだ。


そこにはあなたは存在せず、

神が存在している。

あなたは

影としてしか存在しない。

光が外に向かって流れると、

あなたが存在するが、

影としてでしかない。

あなたが存在するのは、

真の自己に気付かないままで

いるからだ。


真の自己とは至高の自己だ。

真の自己とは宇宙的な自己だ。


それは

あなたとは

いっさい関係がない。

それは

あらゆるものの自己だ。

だが、

それを得るためには、

大いなる変容が

起こらなければならない。


自然は人間が

外に向かって流れるように

準備した。

自然の役割はそれで終わった。

人間において、

自然はその頂点に達した。

もはや人間が

自然を超えてゆこうと

決断しないかぎり、

そのままでは

何ひとつ起こらない。

自然は人間が

みずからの足で立てる地点まで

人を運んできた。

人間はもはや子供ではない。

人間は大人になった。

もはや自然は親の役割を終えた。

もうその必要はない。


自然な進化は人間で止まった。

これは事実だ。

科学者たちでさえ

この事実に

ますます気付きつつある。

何千年ものあいだ、

人間には何も起こらなかった。

人間は変わらなかった。

まるで自然の仕事が

終わってしまったかのようだ。

今や人間は、

さらなる成長の道を

みずからの手に

引き受けなければならない。

宗教とはまさにそれだ。


宗教とは、

人がみずからの足で立ち、

みずからの存在に

責任をもつようになり、

事態がどうなっているか、

自分が誰であるかを見つめ、

探求し、

探索しはじめることをいう。

そして、それは

たんなる好奇心であっては

ならない。


哲学は好奇心から生まれる。

宗教はきわめて誠実で、

真正な探求だ。

それは問いかけだ。

そして

好奇心と問いかけには

大きな違いがある。

好奇心は幼稚なものであり、

頭のささいなかゆみにすぎない。

かいてしまえば、

満足して終わりになる。

哲学とは

かゆいところをかくことだ。

宗教は生死の問題だ。

哲学では、

人はけっして

巻き込まれることがなく、

超然としている。

おもちゃで遊んでいるだけで、

生死の問題ではない。

知識をかき集めるが、

けっして

それを実行には移さない。


聞いた話だが―


昔あるところに

優れた儒学者が住んでいた。

彼は八十歳に近い紳士であり、

その博学な知識と理解において、

彼の右に出る者はないと

言われていた。

ところが

彼の有する知識よりも

もっと深い、

新しい教義が

遠くで生まれたという噂が

広まった。

老齢の紳士は

それを黙認できなくなり、

この問題に黒か白か

決着をつけなければならないと

思った。

老齢にもかかわらず、

彼は長旅に出かけた。

数ヶ月もの

厳しい旅路を終えて

目的地に着くと、

彼は自己紹介をして

来意を告げた。

主人は

新しい禅の流派に

属する師だったが、

ただ次のような句を引用した。

「悪しき行いを避け、

 あたうるかぎりの善を行なう。

 これが

 あらゆる覚者(ブッダ)たちの

 教えだ」


これを聞いた

儒学者の老紳士はかっとなった。

「老齢の見に鞭を打ち、

 生命の危険を冒してまで

 長く険しい旅をしてきたのに、

 三歳の子供でもそらんじるような

 ささいな句を引用するだけとは!

 私を馬鹿にしているのか?」


だが禅師は応えた。

「あなたを馬鹿にしているわけでは

 ありません。

 確かに三歳の子供ですら

 この句を知っていますが、

 八十歳の老人でさえ

 それを実行できないことを

 思いを致してください!」


宗教が問題にするのは

知ることではなく、

それを生きることだ。

宗教とは生であり、

それを生きないかぎり、

それが何であるのか

何ひとつ知ることはできない。


そして宗教を生きるためには、

哲学をすべて落とし、

実際に試してみることを

はじめなければならない。

人は実験室に

ならなければいけない。


科学者の実験室は

外界にあるが、

宗教的な人の実験室は

その人自身の存在―

その人自身の肉体、

その人の魂、

その人の心だ。

科学者は

実験の対象となる事物に

精神を

集中しなければならない。

科学者は目を開けて

仕事をしなければならない。

宗教の仕事は

目を閉じて

行なわなければならない。

自分自身に

精神を

集中しなければならない。


そして

それは一筋縄ではゆかない。

というのも、

宗教の世界では

実験する者と

実験の対象が同じだからだ。

それゆえに

それは入り組んでいて、

風変わりで、

解釈しがたく、

非論理的なものになる。

宗教の世界では

知る者と

知られるものは同じだ。


科学の世界では

知る者は分離している。

知られるものは分離している。

ものごとは

明確に分けられており、

境界が定められている。


だが、

宗教では

あらゆるものが融合し、

互いに溶け合っている―

知る者ですら

分離したままでは

いられない。

宗教は知る者から

遊離した知識など与えない、

知る者から

遊離した体験など与えない。

それが与えるのは

知る者のエッセンス

そのものだ。


宗教的な

探求者であるためには、

いっさいの哲学を

落とさなければならない。

先験的な知識を

すべて落とさなければならない。

なぜなら、

先験的な知識は

すべて障害になるからだ。

それは問うことを妨げる。

問いかけは

不誠実なものになる―

その最初の一歩から

問いかけは曇らされてしまう。



Osho - The Secret Of Secrets